日本のイスラーム HALALINFO
日本のイスラム
ムハマド ズべル
日本におけるイスラムの歴史は比較的短い。アラビア半島から広まったイスラムのメッセージや知識は、東へ伝わり、イラク、イラン、アフガニスタン、インド亜大陸、アフリカ、マレーシア、中国、フィリピンにまで達した。 その後も長い間布教が続き、アメリカやヨーロッパといった地域にまで到達した。しかし、日本にイスラム教徒が到来したのは19世紀の終わり頃であった。それ以来、日本のムスリムの人口は少ないながらも徐々に増加している。
<近代の記録>
近代において最初のムスリムとの関わりは、19世紀後半にイギリスやオランダの船に乗ったインドネシア人との接触であった。1870年代の後半に、預言者ムハンマドの伝記が日本語に翻訳され、日本人にイスラムを伝える事に役だったが、イスラムの歴史や文化の一部しか伝えられなかった。
<日本とイスラム世界との公的な接触>
日本とイスラム世界との公的な接触はトルコが初めてであり、19世紀オスマン帝国の時代、日本では明治時代であった。1890年にアブドゥル・ハーミッド2世(在位期間1876-1909年)はウスマン・パーシャー提督率いる600人もの船員と兵隊を乗せたアル・トグルール船で、日本に使節を送った。使節団は首尾よく日本の天皇に面会することができた。しかし、その帰路、日本の水域内で激しい竜巻に見舞われ、船は転覆し、スルタンの兄弟を含む550人が犠牲になった。その事故は両国に深い衝撃を与えたが、生存者は二隻の日本の船でトルコへ送られた。多くの犠牲者たちは事故現場に埋葬され、その近くに記念碑が建てられた。日本人とトルコ人は、両国関係の変化にも関わらずその記念碑で5年ごとに追悼式を行っている。
<20世紀>
1900年からの20年間は、日本人とムスリムが深い交流を持った重要な期間であった。初めてメッカに巡礼をした日本人は山岡光太郎である。彼は1909年にロシアのジャーナリストのアブドゥルレシト・イブラヒム(1857~1944年)と出会い、ボンベイでイスラム教に改宗し、名前を山岡オマルに改名した。
神戸モスクは1935年にトルコのタタール人の貿易業者の団体のサポートで建てられた。東京モスクは1908年より計画され、1938年に完成した。その初代イマーム(イスラム教指導者)はアブドゥルレシト・イブラヒム(1857~1944年)とアブドゥルハイ・コルバンガリー(1889~1972年)であった。
<日本のムスリム人口>
日本政府は宗教に基づいた人口データを集めていないため、日本のムスリム人口の正確な数値はない。たくさんのムスリムやイスラム団体が存在するにも関わらず、日本人ムスリムや、外国人ムスリムの完全なデータは存在しないのである。
日本人ムスリムの人口は15万人以上で、外国人ムスリムの人口は25万人以上と言われている。また、多くの日本人が海外(マレーシア、インドネシア、中国、パキスタン、インド、バングラディッシュ、トルコ、エジプト、ヨルダン、パレスチナ、レバノン、スーダン、セネガル等)のムスリムと結婚している。ムスリムの子供の人口は10万人以上と言われており、その数は増え続けている。日本のムスリムの人口が急速に増えたのはムスリムが仕事を求めて日本に来た80年代とみられている。
最大のムスリムコミュニティは関東地方にある。また、ムスリムコミュニティの大部分は東京、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪にある。
<着実に発展する日本のイスラム>
1980年まで日本には2つのモスクしか無かった。一つは神戸モスクで、もう一つは東京のアラビック・イスラミック協会のモスクである。東京モスクは地震の被害を受け、その機能を果たせず、古い建物は1960年代に取り壊された。
1990年代、人口が増えた日本のムスリムは金曜日の礼拝とイード(イスラームの祭)を行う場所を探していた。彼らは金曜日の礼拝のためにレンタルルームを借り、イードのために公園を使っていた。当時、ムスリムの貿易商人や労働者たちは日本経済のバブルの恩恵を受けていた。そのころ、多くのムスリムが日本人女性と結婚し、モスク建設の需要が高まった。その後の25年間で日本のモスクの数は2つから70まで増えた。東京モスクや東京ジャーミーは再建され、2000年に再びオープンした。現在では日本中(東京、埼玉、千葉、群馬、長野、茨木、栃木、福島、宮城、岩手、神奈川、静岡、愛知、福井、京都、三重、兵庫、大阪、広島、新潟、富山、北海道、沖縄、福岡、熊本、鹿児島、徳島、大分、その他多くの県)にモスクが存在する。